親戚、親、友達を含めたすべての知人への興味。なし。
全ての他人に関する現象への興味。あり。
興味のある人間はすべて他人です。
追記
つまり、興味を持った時点で親戚、親、友達を含めたすべての知人は他人になる。
興味の対象へは常に傍観者でいたい。
昔、俺が生まれる前、父親が高校生だった頃、祖父が高校生だった頃*1、いったいどのような人間だったのかとても興味ある。
父親は勉強しすぎた反動でお出かけが大好き。祖父はバブルの後遺症で無気力。俺は希望が見当たらないので虚しい思いしかできない。
第二次世界大戦後を作り上げた人々はな何を原動力に生きてきたのだろう。たぶん、物が圧倒的に足りなかったのだろう。
身の回りは物で溢れている。それは知っている。
足りないものは目に見えない。
見えないので足りているフリも出来るし、ないフリも出来る。
心が満たされない、という表現はいつごろからあるのだろう。探せば日本書紀とかにもありそうな気はする。
物を満たすことは出来るのに心がどんな年月をかけても満たされていかないのはひどい。それを求めているのもひどい。
心を満たすのは他人との関係だけである。
なのでそれがお金になり商売になる。
物はどんどん売れなくなる気がする。
関係だけが重要になる。
その関係をセット販売するような職業は盛んになるでしょう。
SNSじゃあ物足りない、密度が薄い。
隣の家の住人を知ることが必要な気がする。マックの店員と仲良くなることが必要な気がする。
はてなの住所登録は5年先を行っているのかもしれない。
結局、傷の舐めあいしか出来ないのかもしれない。
傷付くのが怖いと生まれてきてから常に思っている気がする。
完璧な理解は不可能なので出来るだけ情報を共有する。絶望を乗り越えるのにはそれが有効。
吐き出すことでどうにかなるならとっても楽なんだけど、不満と現状確認だけで満足してしまってその先が見えてこない。
先を見る思想と知識と知恵と勘、必要なのはそれ以外の何物でもない。
なあなあで生きてもいいが、一人になってから生きていくには、と考える。
そんなシチュエーションはマンガの世界だけだ。
一人になっても生きていく必要があるのか。
今ならカルト教団に入っても疑わずに信じられる。
全てのカリスマを疑うことが自分を救う。